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諸法無我は実質アンチノミー(Antinomy)説を検証する





諸法無我は実質アンチノミー(Antinomy)説を検証する

諸法無我は実質アンチノミー(Antinomy)説を検証する

仏教の根本思想である「諸法無我(しょほうむが)」。
一般的には「固定的な自我は存在しない」という意味で知られている。
しかし哲学的に見ると、これは単なる宗教的主張ではなく、
むしろアンチノミー(二律背反)を突破する思想なのではないか、
という説がある。

今回は「諸法無我=実質アンチノミー解決装置説」を検証してみたい。


そもそもアンチノミーとは何か

アンチノミー(Antinomy)とは、
どちらも論理的には成立するのに、
同時には成り立たない矛盾状態を指す。

有名なのは
カントの純粋理性批判である。

  • 宇宙には始まりがある
  • 宇宙には始まりがない

両方とも理屈が立つ。
しかし両立できない。
これが二律背反である。


自己という概念もアンチノミー化する

「私は存在する」
という感覚は誰にでもある。

しかし分析すると問題が発生する。

  • 身体は細胞が入れ替わる
  • 記憶は変化する
  • 感情も変化する
  • 価値観も変化する

すると
「変わり続けるものが本当に同じ私なのか?」
という問題が生じる。

逆に、
全く変化しない魂を仮定すると、
今度は経験による成長や変化を説明できなくなる。

つまり

  • 自我は存在する
  • 自我は存在しない

両方に理屈がある。
ここでもアンチノミーが発生する。


仏教の回答「その問い自体がおかしい」

仏教が革命的なのは、
どちらか一方を選ばなかった点である。

諸法無我は

「自我があるのか、ないのか」
という問いの立て方そのものが誤り

と考える。

人間は

  • 身体
  • 感覚
  • 認識
  • 意志
  • 意識

という五蘊の集合体にすぎず、
固定した実体としての「私」は見出せない。

しかし同時に、
経験世界においては便宜上「私」は存在する。

つまり

  • 絶対的には存在しない
  • 相対的には存在する

という第三の立場を取る。


実はカントより先にアンチノミーを処理していた?

興味深いことに、
カントは18世紀になって理性の限界としてアンチノミーを論じた。

一方で仏教は約2500年前から、

  • 有る
  • 無い
  • 有り且つ無い
  • 有るでも無いでもない

という四句分別の問題を扱っていた。

特に大乗仏教の中観思想では、
あらゆる固定命題への執着を否定する。

これは現代哲学的に見ると、
アンチノミーの発生源そのものを解体する作業に近い。


ネット民的解釈

諸法無我を現代ネット風に翻訳するとこうなる。

「お前は何者なんだ?」

「そのラベル貼りが既にバグってる」

である。

陽キャか陰キャか、
勝ち組か負け組か、
成功者か弱者か。

人間は何かしら固定属性で自己を定義したがる。

しかし諸法無我は

「そもそも固定属性なんて存在しない」

と返してくる。

かなり強力なカウンター思想である。


結論

「諸法無我=アンチノミー説」は意外と筋が通っている。

  • 自我は存在する
  • 自我は存在しない

という二律背反に対し、
仏教はどちらかを選ぶのではなく、
その前提となる実体視を否定する。

したがって諸法無我は単なる
「自我否定論」ではなく、


「アンチノミーを発生させる認識構造そのものを解体する哲学」

と解釈することも可能である。

要するにネット風に言えば、

「AかBかで争ってる時点で、仏教から見ると両方ハズレ」

ということになる。


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