pontaパス

戸塚ヨットスクールの戸塚宏の話で頻出する浩然の気とりっしんべんに兼について

『孟子』で「浩然之気」と「慊」が出る核心箇所は、公孫丑上の「不動心」論です。孟子が「自分の強みは何か」と問われて、こう答えます。> 我知言、我善養吾浩然之氣。われ言を知り、われ善く吾が浩然の気を養う。つまり、孟子は「言葉の背後にある心の歪みを見抜く力」と、「浩然之気を養う力」を自分の徳として語っています。1. 浩然之気とは何か原典では、公孫丑が「浩然之気とは何ですか」と問うと、孟子はまず「難言也」――説明しにくい、と前置きします。そのうえで、次のように言います。> 其為氣也、至大至剛。以直養而無害、則塞于天地之閒。書き下すと、その気たるや、至大至剛なり。直をもって養いて害することなければ、すなわち天地の間に塞がる。意味は、浩然之気とは、きわめて大きく、きわめて強い精神的・道徳的な気であり、まっすぐな心=直によって養えば、天地のあいだに満ちるほどになる、ということです。ここで大事なのは、浩然之気は単なる「元気」「気合い」「根性」ではないことです。孟子は続けて、> 其為氣也、配義與道。無是、餒也。つまり、この気は「義」と「道」と対になって働く。義と道がなければ、しぼむ、飢える、弱ると言っています。したがって、浩然之気とは、正しいことを正しいと感じ、それを実行し続けることで内側に育つ、堂々とした道徳的エネルギーと考えると分かりやすいです。2. 「集義所生」――浩然之気は一発では得られない孟子はさらに、> 是集義所生者、非義襲而取之也。と言います。書き下すと、これは義を集むるより生ずるものにして、義を襲いてこれを取るにあらざるなり。意味は、浩然之気は、日々の正しい行為の積み重ねから生まれるのであって、たまたま一回だけ正義らしいことをして手に入るものではない、ということです。ここが孟子らしいところです。「義」は外側から貼りつけるポーズではない。行為を重ねることで、内面に沈殿し、やがて人格の力になる。これが「浩然之気」です。3. 「慊」とは何か問題の「慊」は、同じ一節の中の次の文に出ます。> 行有不慊於心、則餒矣。書き下すと、行い、心に慊らざることあれば、すなわち餒う。ここでの「慊」は、あきたる、満足する、心にかなう、納得するという意味です。漢字としての「慊」には「満足する」と「満足しない」の両方の意味がありますが、『孟子』のこの用法では「心に満足する・納得する」の意味だと説明されています。したがって、行有不慊於心、則餒矣は、自分の行為を振り返って、心の底で納得できないところがあれば、浩然之気はしぼんでしまうという意味です。ここでの「慊」は、現代語でいうと、「良心に照らして、胸を張れる感じ」に近いです。逆に「不慊於心」は、「どこか後ろめたい」「自分で自分に納得できない」「心が晴れない」「義にかなっていないと内心では分かっている」という状態です。4. 浩然之気と慊の関係まとめると、両者の関係はこうです。浩然之気は、義を積み重ねることで育つ、堂々たる精神の力。慊は、自分の行為が心に照らして納得できる状態。不慊があると、浩然之気は「餒える」――飢えたように弱ってしまう。つまり孟子にとって、強い人間とは、単に腕力や胆力がある人ではありません。自分の行為が義にかなっていると、内心から納得できる人です。だから、孟子の浩然之気は「自信」に似ていますが、普通の自信とは違います。それは能力への自信ではなく、義に照らしてやましくないという道徳的な確信です。5. 「助長するな」――無理に育てても駄目孟子はこのあと、有名な「助長」の話を出します。宋の人が、苗の成長を早めようとして苗を引っ張ったところ、苗が枯れてしまった、という話です。これは、浩然之気も同じだということです。放置しても育たない。しかし、無理に「俺は正しい」「俺は強い」と作為的に膨らませても駄目。日々、義にかなう行為を積み重ねるしかない。ここに孟子の修養論があります。要するに浩然之気とは、義を積み重ね、心にやましさのない状態から生まれる、天地に満ちるような堂々たる精神力。慊とは、自分の行為が心にかなっている、良心に照らして納得できること。そして、孟子の核心は、心に慊らない行為、つまり自分でも納得できない不義があると、どれほど強がっても浩然之気は養えないという点です。

コメントする

Pontaパス