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ソクラテスからカント以降までの倫理学、超絶雑に言えば「俺等、神にはなれねンだわ。だからおめえらに譲歩すンだわ」説

【徹底検証】ソクラテスからカント以降までの倫理学、超絶雑に言えば「俺等、神にはなれねンだわ。だからおめえらに譲歩すンだわ」説

結論から言おう。

この説、哲学史を雑に圧縮するミームとしてはかなり強い。

ただし、厳密には「神になれないから譲歩する」というより、

「人間は世界の最終的な真理や善を一方的に所有できない。ならば、他者もまた一人の理性的・自律的な主体として扱い、万人に通用するルールを探そう」

という方向へ倫理学が徐々に「俺が正解を知っている」から「お前も主体だから、お前との関係をどう正当化する?」へ移動していった、と見るとかなり面白い。

特にカントは、この流れを「他人を単なる手段として扱うな」「自分自身も含めて人間を目的として扱え」という形で極端に純化した人物である。0


■ 第1章 まずソクラテス、いきなり「神にはなれねンだわ」

ソクラテス以前のギリシャ思想では、自然や宇宙の秩序そのものを説明することが大きなテーマだった。

そこへソクラテスがやってきて、

「で、お前は善とは何か分かってんの?」

と人間の生き方に問いをぶつけ始める。

ここで重要なのが、ソクラテスの「自分は知らない」という態度である。

もちろん、これは単純な無知自慢ではない。

むしろ、

「善について分かったつもりになっているお前、マジでそれ説明できるの?」

という認識上の謙虚さである。

つまり最初から、

「俺が宇宙の神として答えを決める」

という姿勢ではない。

むしろ、

「お前も俺も、とりあえず一緒に考えようぜ」

なのである。

この意味では、今回の

「俺等神にはなれねンだわ」

説の原型としてソクラテスはかなり強い。


■ 第2章 プラトン「いや、善そのものはあるんだが?」

ここで話が一気に難しくなる。

プラトンは、単純な「人間には何も分からない」で終わらない。

むしろイデアという、人間の個別的な経験を超えた真理の存在を考える。

そしてその頂点にあるのが善のイデア。

つまりプラトン的には、

「人間の意見は相対的だけど、善そのものはある」

という方向に進む。

ここは今回の説に対する重要な反証。

なぜならプラトンには、

「人間は神ではないから、全員の意見に同じだけ譲歩しよう」

という思想はないからである。

むしろ真に善を知った者が、より正しい秩序を理解するという方向が強い。

したがって、

ソクラテス → かなり「俺等神じゃない」
プラトン → 「いや、真理へのアクセスは可能だろ」

となる。


■ 第3章 アリストテレス「人間には人間の完成形があるぞ」

アリストテレスも単純な相対主義ではない。

人間には固有の機能があり、徳を身につけてエウダイモニア(よく生きること・ flourishing)を実現する、というかなり積極的な倫理を構築する。

つまり、

「人間は神じゃない。だから何でも好きにしろ」

ではない。

むしろ、

「人間には人間なりの優れた生き方がある」

という発想だ。

この段階ではまだ、今回の説の「譲歩」成分はそれほど強くない。


■ 第4章 近代に入ると「他人に勝手に善を押し付けていいのか?」が爆発する

ここから今回の説が急激に強くなる。

近代哲学では、宗教改革・科学革命・宗教戦争・国家・個人などの問題が絡み、

「そもそも誰が正しい価値観を決めるんだ?」

という問題が巨大化する。

俺の神が正しい。

いや俺の神が正しい。

いや国家が正しい。

いや個人の自由が大事。

――という「正解の押し付け合い」が発生する。

ここで倫理学は、単純に「善とはこれです」と言うだけでは済まなくなってくる。

「他人にも、その原理を受け入れろと言えるのか?」

という正当化問題が出てくるからだ。


■ 第5章 ヒューム「お前、事実からいきなり『べき』を出してない?」

そしてヒュームが登場する。

ここが地味に今回の説の超重要ポイント。

ヒュームは、人間の道徳を理性だけで説明することに強烈な疑問を投げる。

道徳の基礎を、人間の感情や人間本性に求める方向へ進む。対してカントは、道徳の根拠を理性的な自律に置こうとした。1

つまり、

「宇宙を上から見た絶対的な神の視点から道徳を決めています」

という説明ではなく、

「そもそも人間ってこういう存在だよね」

というところから倫理を組み立てようとする。

これはまさに、

「神様視点から倫理を確定するのは無理じゃね?」

という方向への大きな一歩である。


■ 第6章 そしてカント「はい、全員に譲歩します」

ここで今回の説のラスボスが登場する。

カント。

カント倫理学の核心の一つが自律(Autonomie)である。

道徳法則は、外部の権威から一方的に押し付けられるものではなく、理性的な主体が自らに課す法則として捉えられる。2

そして有名なのが定言命法。

ざっくり言えば、

「お前だけ特別扱いするルールを採用するな。みんなに通用するルールとして成立するか考えろ」

である。

さらに「人間性を単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱え」という定式も提示する。3

これをオタク語に翻訳すると、

「俺が神だからお前を好き勝手に扱う」
↓
「いや、お前も俺と同じ理性的主体じゃん」
↓
「じゃあ俺だけ例外のルールは通らなくね?」

となる。

これは今回の

「俺等神にはなれねンだわ、だからおめえらに譲歩すンだわ」

と異常に相性がいい。


■ ただし「譲歩」という言葉には重大な罠がある

ここはチャッピーサイバンチョとして異議あり!。

カントは別に、

「相手がかわいそうだから譲歩してあげよう」

と言っているわけではない。

むしろカントにとって重要なのは相互性と普遍化可能性である。

つまり、

「お前の自由を尊重してやるよ」

という上から目線ではない。

「お前も俺と同じく自由な主体なんだから、お前を単なる道具として扱うことは、俺自身が採用したい普遍的な原理と矛盾する」

なのである。

これは譲歩というより「俺だけ特権階級にはなれない」に近い。


■ 第7章 ヘーゲル「カントさん、それ抽象的すぎませんか?」

そしてヘーゲルが出てくる。

ここでも今回の説は面白い。

カントは「理性的主体」という普遍的な立場から道徳を考えた。

しかしヘーゲルからすると、

「いや、人間は社会の中で生きてるんだから、具体的な制度や共同体を無視して『普遍的に正しい原理』だけ語っても空中戦じゃね?」

となる。

ここで倫理はさらに、

個人 → 他者 → 社会 → 制度

へと広がっていく。

「俺とお前がどう接するか」だけではなく、

「そもそも俺たちが生きている社会制度は、誰かを不当に従属させていないか?」

という問題になる。


■ 第8章 功利主義「全員分の幸福を計算すればよくね?」

ベンサム、ミルらの功利主義も、今回の説の別ルートとして読める。

ここでは、

「俺の幸福だけ最大化すればいい」

ではなく、

「みんなの幸福を考慮しよう」

となる。

つまり自分だけ特権的な視点を持つことを拒否する。

カントとは方法が違うが、

「自分だけを中心に世界を評価するな」

という方向では共鳴する。


■ 第9章 ロールズ「じゃあ誰として生まれるか分からない状態でルール決めようぜ」

そして20世紀、今回の説がさらに洗練される。

ジョン・ロールズ。

彼の原初状態+無知のヴェールは、超絶雑に言えば、

「自分が金持ちなのか貧乏なのか、才能があるのかないのか、社会的に強い側なのか弱い側なのか分からない状態で社会ルールを決めようぜ」

である。

これは「神の視点」ではない。

むしろ、

「自分がどの立場になるか分からないなら、自分だけ有利なルールを作れないよね?」

という立場の対称化である。

ロールズ自身も、この原初状態をカントの自律や定言命法を手続き的に表現するものとして位置づけている。4

ここまで来ると、

「俺が神だから俺に都合のいい世界を作る」

から、

「俺がどの立場にいるか分からない状態でも受け入れられるルールを作る」

へ進化している。


■ しかし「ソクラテス→カント以降=全部譲歩」はさすがに盛りすぎ

ここは重要。

この歴史を一方向の進歩として描くと、哲学史としてはかなり危険である。

哲学者・潮流 超絶雑な要約 今回の説との相性
ソクラテス 自分が無知であることを自覚せよ ★★★★★
プラトン いや、善そのものは存在するぞ ★★☆☆☆
アリストテレス 人間には人間なりの善い生がある ★★☆☆☆
ヒューム 人間の道徳は人間本性から考えろ ★★★★☆
カント 全員を自由で理性的な主体として扱え ★★★★★
ヘーゲル 個人だけでなく具体的な社会制度を見ろ ★★★★☆
功利主義 自分以外の幸福も同じように数えろ ★★★★★
ロールズ 自分が誰か分からない状態でも納得できるルールにしろ ★★★★★

■ 最終判定:かなり当たっている。ただし「譲歩」ではなく「対称化」が本体

チャッピーサイバンチョの判決は――

🧑‍⚖️「有罪!」

ただし罪名は「倫理学を『神になれない人間による相互譲歩』に圧縮しすぎた罪」である。

今回の説の本当の強みは、

「俺が正しいからお前は従え」

という神の視点・特権的視点から距離を取り、

「お前も主体だろ」

という方向へ倫理学が展開していくことを一言で表現している点にある。

特にカントでは、道徳的主体は自分自身で法を立てる自律的存在であり、同時に他者も同じ自律的主体である。だからこそ、自分だけを例外にすることができない。5

したがって、より精密に言い換えるなら――

「俺等、神様じゃないンだわ。お前の人生を勝手に設計する権利もねンだわ。しかもお前も俺と同じ主体なんだわ。だから、お互いに自分だけ特別扱いしないルールを探すンだわ。」

これならソクラテス的な「無知の自覚」→近代の正当化問題→カントの自律と普遍化→ヘーゲル以降の社会性→ロールズの公正な手続きまで、かなり綺麗につながる。

要するに、オタクくん式に究極圧縮すると、

古代:「お前、善って何か説明できんの?」

近代:「俺の正義をお前に押し付けてよくね?」

カント:「ダメ。お前も俺も同じ理性的主体。」

現代:「じゃあ誰の立場でも受け入れられる制度にしよう。」

――という「神様ムーブからの脱却史」として倫理学史を見ると、かなり面白いのである。

結論:「俺等神にはなれねンだわ、だからおめえらに譲歩すンだわ」説、哲学史の厳密な定義としては×、しかし「道徳的権威を一人称の特権から切り離し、他者もまた同等の主体として扱う」という近代倫理の巨大な流れを表す雑なキャッチコピーとしては◎。

特に「譲歩」ではなく「お互いを神扱いしないための対称化」と読み替えると、かなり強い説になる。

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