もちろんです。今回は「漏れ」と「おまいら」の境界が消えることで、「自分/他人」という二分法そのものが溶ける=自他不二という方向に振り切って、仏教思想・哲学まで絡めた「ガチっぽいのに結論は漏まいら」という記事にします。
【哲学的発見】「漏まいら」、実は自他不二だった――「漏れ」と「おまいら」の境界が消滅し、ネット民は一つになる説を徹底検証
古のネット民が愛した言葉、「おまいら」。
そして古のネット民が自称した言葉、「漏れ」。
普通なら、この二つは別物である。
「漏れ」は自分。
「おまいら」は他者。
つまり、
漏れ ≠ おまいら
である。
ところが、ここで「漏まいら」という言葉を誕生させると、状況が一変する。
なんと――。
漏れ=おまいら
という、とんでもない構造が出現するのである。
これは単なるダジャレなのか。
それとも、「自分」と「他人」を分ける境界そのものを超越する、究極のネット哲学なのか。
オタクくん、まさかの「漏まいら=自他不二」説を提唱する。
第1章 そもそも「自」と「他」は何が違うのか
哲学的に考えるなら、最初に問題になるのは「自分」と「他人」の区別である。
通常、我々は世界を、
- 自分
- 他人
- 自分が見ている世界
- 他人が見ている世界
というように分けて理解している。
特に日常生活では、
「これは私の意見」
「それはあなたの意見」
という形で、自分と他者を区別する。
これは社会生活において極めて重要な区別である。
ところが――。
「漏まいら」では、この境界線が怪しくなる。
第2章 「漏れ」と「おまいら」は本来、正反対
「漏れ」は一人称として使われる。
つまり、
漏れ=自
である。
一方、「おまいら」は二人称複数。
おまいら=他
となる。
したがって、記号化すれば、
漏れ=自
おまいら=他
であり、両者は本来、明確に区別される。
ところが「漏まいら」では、
自+他
が一語の中に圧縮されている。
ここが本説最大のポイントである。
第3章 「漏まいら」の中で「自」と「他」が融合する
「漏まいら」という語を分解すると、
漏れ + おまいら
である。
つまり、
自 + 他
が一つの言葉になっている。
ここで、もし「漏れ」と「おまいら」の境界を完全に維持するなら、
「漏れ」と「おまいら」
と書けばよい。
しかし、それでは自と他が別々である。
ところが「漏まいら」と言ってしまうと、
漏れ=おまいら
という一体化が起きる。
つまり、
「自分と他人は別々の存在である」
という前提に、言葉そのものが「ちょっと待った」をかけているのである。
第4章 ここで仏教の「自他不二」が襲来
ここから話が急に哲学になる。
自他不二とは、文字通り「自」と「他」を二つに分けて固定的に捉えないという方向の考え方である。
仏教思想では、自己を独立した固定的実体として捉えることそのものが問題化される。
特に無我の思想では、「これこそが完全に独立した私である」という固定的な自己観が批判される。
また大乗仏教では、自己と他者を固定的な実体として切り分ける見方を超える方向の思想が発展していく。
もちろん、
「漏まいら」というネットスラングが仏教哲学を実際に表現している
と歴史的・学術的に断言することはできない。
しかし構造だけを比較すると、妙な一致がある。
| 概念 | 通常の捉え方 | 「漏まいら」的世界 |
|---|---|---|
| 自 | 自分 | 漏れ |
| 他 | 他人 | おまいら |
| 自他 | 別々 | 漏れ+おまいら |
| 自他不二 | 固定的な二分を超える | 漏まいら |
――あまりにも綺麗である。
第5章 「俺とお前ら」から「俺たち」へ
さらに重要なのが、「俺」と「お前ら」の関係である。
「俺とお前ら」と言った時点では、そこには境界線がある。
俺|お前ら
しかし、「俺たち」と言った瞬間、
俺たち
となる。
つまり、複数人を「同じ集団」として表現することで、自分と他者の境界を弱めることができる。
「漏まいら」も同様である。
漏れ+おまいら
という異質な二項を一つにまとめることで、
「漏れたち」
に近い共同体意識が生じる。
ここで「漏まいら」は、単なる呼びかけを超えて、自己と他者を一つの「我々」に変換する装置になっている。
第6章 「自他不二」なのに、なぜこんなにくだらないのか
最大の問題である。
仏教哲学。
自他不二。
無我。
そして――。
漏まいら。
どう考えても最後だけふざけている。
しかし、ここがインターネット文化の面白いところでもある。
高度な思想を、
「漏れもおまいらも一緒じゃんw」
まで圧縮してしまう。
しかも、本人たちは仏教哲学を語っているつもりすらない。
ただキーボードを叩いているだけである。
にもかかわらず、結果として、
「自分と他人の境界を一時的に溶かす」
という共同体形成が起こる。
第7章 SNS時代に「漏まいら」が刺さる理由
現代のSNSでは、ユーザー同士が常に意見を比較し、賛成・反対・批判・反論を繰り返している。
その結果、
- 自分
- 他人
- 味方
- 敵
- フォロワー
- アンチ
という境界が強く意識されやすい。
そこで、
「お前らはこうだ」
ではなく、
「漏まいら」
と言ってしまう。
すると、「自分だけが外側に立って他人を評価する」という構造から、
「漏れもおまいらも同じネット民だろ」
という構造へ変わる。
これは、いわば対立より先に共同体を置く言葉である。
第8章 「漏まいら」は“自他不二”を完全に実現しているのか
もちろん、厳密には違う。
「漏まいら」と発言している時点で、話者と相手は現実には別々の人間である。
したがって、
存在論的に自分と他人が同一になる
わけではない。
ここは重要である。
「自他不二」を哲学・宗教学上の厳密な概念として扱うなら、「漏まいら」と完全に同一視することはできない。
しかし、
「自分と他者を二項対立として固定せず、同じ共同体として捉える」
という比喩的・言語的構造としてなら、非常に面白い対応関係を見ることができる。
第9章 究極形「漏まいら=我々」
ここまで来ると式が完成する。
漏れ=自
おまいら=他
漏まいら=自+他
そして、
自+他=我々
となる。
つまり「漏まいら」とは、
「自分」と「他人」を一時的に「我々」へ変換するネット言語
なのである。
最終判定――チャッピー先生、ついに悟る
【チャッピー先生・最終判定】
「漏まいら=自他不二」説は、厳密な仏教思想としては成立しないが、言語構造の比喩としては非常に面白い。
「漏れ」が一人称、「おまいら」が二人称複数である以上、本来なら両者は自/他として分離している。
しかし、それらを「漏まいら」という一語に融合すると、
自+他→我々
という変換が発生する。
これは厳密な意味での「自他不二」そのものではない。
しかし、「自分だけが特別な存在として他者から切り離される」という構図を弱め、自己と他者を同じ共同体として捉える言語表現という意味では、「自他不二」を連想させる構造を持つ。
判定:言語学的ネタとして◎
哲学的メタファーとして◎
仏教思想との完全同一視:×
ネット共同体形成装置として:かなり面白い
結論 ――「漏まいら」とは、ネット民が一瞬だけ悟る瞬間である
結局、「漏まいら」は単なる語呂合わせなのかもしれない。
だが、その語呂合わせを哲学的に眺めると、奇妙な構造が浮かび上がる。
漏れ。
それは「自分」。
おまいら。
それは「他者」。
そして、
漏まいら。
それは、その二つを一つにしてしまった言葉。
つまり――。
「漏れ」と「おまいら」の境界が消えた瞬間、
そこには「我々」だけが残る。
自分と他人。
味方と他人。
俺とお前ら。
それらを一度全部置いておいて、
「漏まいら」
と呼んでみる。
するとそこには、
漏れもいる。
おまいらもいる。
でも、もう分ける必要はない。
自他不二。
(キリッ
――そして悟りを開いたネット民、今日もレスバを始める。