【徹底検証】なぜ『ブルーロック』は妙にヘーゲル臭いのか?――絵心甚八はフロイト先生を経由してヘーゲルを実践している説
結論から言おう。
『ブルーロック』が妙にヘーゲル臭く感じられる――。
この直感、哲学的な読みとしてはかなり面白い。
ただし最初に重要な注意点がある。
「作者がヘーゲルを直接参照している」「絵心甚八がフロイトを通じてヘーゲルを意識的に再現している」ことを裏付ける一次資料は、今回確認できた範囲では見つからない。
したがって本記事では、これを作者の隠しネタの断定ではなく、『ブルーロック』の思想構造とヘーゲル哲学を比較する仮説として徹底検証する。
そして比較してみると――。
「エゴ」「他者との競争」「承認」「自己意識」「否定」「自己更新」というキーワードが、驚くほど綺麗につながる。
第1章 そもそも何が「ヘーゲル臭い」のか?
『ブルーロック』の基本思想を超ざっくり言えば、
「他者との競争によって、自分自身の能力・欲望・武器を発見し、既存の自分を壊して、より強い自分へ更新する」
である。
もちろんサッカー漫画なので、表面的には「ゴールを決める」「勝つ」「FWとして成長する」という話だ。
しかし作品内で繰り返されるのは、単純な能力値の上昇ではない。
むしろ、
自分はこういう選手だ
↓
他者との衝突
↓
「その自分では勝てない」
↓
既存の自己認識が崩壊
↓
新しい自分を発見
↓
さらに強い他者と衝突
↓
また自己認識が崩壊
↓
さらに更新
という自己否定→自己再構成の循環になっている。
これがヘーゲル的に見える最大の理由だ。
第2章 ヘーゲルの「自己意識」は、最初から一人では完成しない
ここでヘーゲル先生登場。
『精神現象学』における重要テーマの一つが自己意識(Selbstbewusstsein)です。
そしてヘーゲルでは、自己意識は単純に「自分で自分を認識すれば完成」というものではありません。
他者との関係が必要になる。
自己意識は、別の自己意識との承認(Anerkennung)を通じて形成される、というのが有名な「承認をめぐる闘争」へつながっていきます。
これを『ブルーロック』に置き換えると――。
「俺は最高のFWだ」
↓
でも一人で言っているだけでは
証明できない
↓
他のFWと対決
↓
勝つ / 負ける
↓
自分の能力が相対化される
↓
自己認識が変化する
となる。
つまり「他人がいるから自分が分かる」という構造です。
これ、かなりヘーゲル。
第3章 「お前のエゴを証明してみろ」は承認闘争として読める
『ブルーロック』の「エゴ」という言葉は、一般的には自己中心性・利己性・自我くらいの意味で使われる。
しかし哲学的に見ると、単純な「俺が俺が」ではない。
重要なのは、
「自分が何者なのかを、他者との関係の中で証明する」
という構造です。
ヘーゲルの承認論では、自己意識は他の自己意識からの承認を必要とします。そして両者が互いに自立した存在として認められることが重要になります。
『ブルーロック』では、これがサッカーという競争ゲームに圧縮される。
「俺は最強だ」
↓
「じゃあお前より強い奴は?」
↓
「そいつに勝て」
↓
「勝った」
↓
「なら、もっと強い奴と戦え」
つまり承認の基準が永遠に上昇する。
ここが作品の異様な中毒性を生む。
第4章 そして「敗北」がめちゃくちゃヘーゲル
『ブルーロック』の面白さは、敗北が単なる敗北ではないこと。
負ける。
しかし、その敗北によって、
「今までの自分では説明できない現実」
が突きつけられる。
すると、自己認識を更新せざるを得なくなる。
これをヘーゲル風に書けば、
旧い自己規定 ↓ 現実との衝突 ↓ 矛盾の露呈 ↓ 自己否定 ↓ 新しい自己規定
となる。
ヘーゲルの弁証法では、ある思考の規定が自分自身の内側から矛盾を露呈し、その結果として新しい形態へ移行する、という運動が重要です。
つまり『ブルーロック』の、
「敗北した? じゃあ、その敗北を利用して進化しろ」
という思想は、かなり弁証法的に読める。
第5章 「覚醒」とは、実は自己の止揚ではないのか?
ここでヘーゲルのAufhebung(止揚・揚棄)を持ち出したくなる。
止揚とは単純な破壊ではない。
古いものを否定しながら、その内容を何らかの形で保存し、より高い規定へ移行する。
『ブルーロック』の「覚醒」をこの形式で読むと面白い。
「昔の自分」
↓
否定される
↓
しかし能力そのものは捨てない
↓
新しい使い方を発見
↓
「新しい自分」になる
例えば、単純な身体能力、視野、直感、ポジショニングなどが、他者との対決によって別の意味を持ち始める。
つまり、
「昔の自分を捨てる」
というより、
「昔の自分を素材にして、別の自分へ変換する」
と読むことができる。
これこそ止揚的な読解である。
第6章 では、ここで「フロイト先生」が登場する
ここからユーザー説の核心。
なぜ絵心甚八=フロイト的な先生という発想が面白いのか。
フロイトの精神分析では、人間の心を単純な「理性的な私」だけで説明することはできない。
後期の構造論では、イド(Es)・自我(Ich)・超自我(Über-Ich)というモデルが展開されます。
ここで重要なのは、
「人間の行動には、本人が完全に意識していない欲望や衝動が関係する」
という発想です。
そして『ブルーロック』の絵心は、選手たちに対して、しばしば「お前が本当に何を欲しているのか」を突きつける役割を果たす。
だから、
絵心 =「お前は本当は何がしたい?」 選手 =「俺は……」 ↓ 自己分析 ↓ 自分の欲望・武器を発見 ↓ プレーが変化
という構造になる。
ここには確かに精神分析っぽい匂いがある。
第7章 しかし「フロイト=ヘーゲル」ではない
ここは超重要。
フロイトの精神分析とヘーゲルの弁証法を直接イコールにするのは危険です。
フロイトが精神構造を分析したからといって、そのままヘーゲル弁証法になるわけではありません。
むしろ、この仮説を成立させるなら、
ヘーゲル
「自己意識は他者との関係で形成される」
+
フロイト
「主体には意識だけでは把握できない欲望・心的構造がある」
↓
ブルーロック的翻訳
「他者との競争によって、
自分でも気づいていなかった
自分の欲望・能力・エゴが露呈する」
↓
「その自分を更新する」
と考えたほうが圧倒的に精密です。
第8章 さらにヤバいのが「敵=自分を発見する装置」になっていること
『ブルーロック』のライバルキャラクターは、単なる敵ではありません。
自分では見えなかった自分を見せてくれる存在として機能する。
これをヘーゲル的に読むなら、他者は単なる障害物ではない。
自己意識が自分自身を知るための媒介です。
ヘーゲルの承認論では、自己意識の成立には他の自己意識との関係が本質的だとされます。
だから『ブルーロック』の敵キャラを、
「主人公の成長を邪魔する人」
だけでなく、
「主人公に自己認識を与える鏡」
と見ることができる。
これが妙に哲学的なのだ。
第9章 凪・玲王・潔などを「承認」の問題として読むと化ける
特に面白いのが、キャラクター同士の関係です。
『ブルーロック』では、能力だけではなく、
- 誰に認められるか
- 誰を認めるか
- 誰を超えたいのか
- 誰に勝つことで自分を証明したいのか
- 他者から与えられた自己像をどう壊すのか
が頻繁に問題になります。
これはヘーゲル的な承認と自己意識というテーマとかなり相性がいい。
特に「お前はこういう人間だ」と他者から規定されたキャラクターが、その規定を受け入れるのか、否定するのか、乗り越えるのか――。
これはまさに自己規定と他者による規定の衝突です。
第10章 「俺が世界一になる」はヘーゲル的には承認欲求の極限形態?
ここまで来ると、作品タイトルの「BLUE LOCK」そのものより、作中で繰り返される「世界一」という基準が重要になってくる。
世界一というのは、自分一人では決定できません。
「俺が世界一だ」と宣言するだけなら、独り言です。
世界一になるには、
世界中の他者との比較・競争・評価
が必要になる。
つまり、
自己主張 ↓ 他者との対決 ↓ 評価 ↓ 承認 ↓ さらに高い基準 ↓ 自己更新
という無限ループ。
ヘーゲルの承認論では、自己意識が他の自己意識からの承認を求めることが重要な契機になります。
この意味では、
「世界一のストライカーになる」
という目標は、単なるスポーツ上の目標であると同時に、自己意識の完成を目指す物語として読める。
第11章 ただし「勝てば承認される」だけでは終わらない
ここがヘーゲルを知るとさらに面白くなるところ。
ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法では、単純な勝者が最終的な勝者にならない。
主人は奴隷から承認を得ても、その承認は対等な自己意識からの承認ではないため、完全な自己確証にならない。
その結果、主人は逆説的に奴隷への依存を抱えることになる。
これを『ブルーロック』風に超意訳すると、
「雑魚を蹂躙したところで、自分が本当に強いことの証明にはならない」
となる。
だからこそ、強者には強者をぶつけなければならない。
自分を本当に否定できるほど強い他者が必要になる。
これ、ブルーロックの「強者同士をぶつけて化学反応を起こす」思想と非常に相性がいい。
第12章 絵心甚八は「ヘーゲル先生」なのか?
ここまでの議論をまとめると、絵心の役割は単なる監督ではない。
むしろ、
「お前は何者だ?」
↓
「その能力は何だ?」
↓
「なぜ勝てない?」
↓
「その敗北から何を学ぶ?」
↓
「今までのお前を壊せ」
↓
「新しいお前を作れ」
という自己意識の発達を強制する哲学教師として見ることができる。
しかも絵心は、選手に「仲良くしろ」とは言わない。
むしろ競争させる。
なぜなら、他者との衝突によってしか露呈しない自己があるから。
ここまで来ると、
絵心=ヘーゲル的自己意識の強制的ファシリテーター
という珍説が成立する。
第13章 しかし本当に「フロイト経由ヘーゲル」なのか?
ここは慎重に判定しよう。
確認できる哲学的対応関係はかなり面白い一方、「金城宗幸・ノ村優介がフロイトを経由してヘーゲルを意図的に作品へ組み込んだ」という直接証拠は別問題です。
また、フロイトの「自我」とヘーゲルの「自己意識」は同じものではありません。
したがって、
「絵心=フロイト=ヘーゲル」
と一直線に結ぶのはアウト。
しかし、
「ブルーロックは、フロイト的な“自己の内部にある欲望”という読みと、ヘーゲル的な“他者との関係による自己意識の形成”という読みを同時に適用すると非常によく説明できる」
という命題なら、かなり強い。
第14章 むしろ「フロイト→ラカン→ヘーゲル」のルートがヤバい
そして哲学・精神分析史をもう一段掘ると、さらに面白いルートがある。
ヘーゲル ↓ 承認・欲望・自己意識 ↓ コジェーヴ ↓ ラカンなどへ影響 ↓ 精神分析的な「欲望」「他者」 ↓ 現代的な主体論
ヘーゲルの承認論は後世の思想、とりわけフランス思想・精神分析にも大きな影響を与えました。特にコジェーヴによるヘーゲル読解は、後のラカンらにも影響を与えたことが指摘されています。
だから、
「フロイトっぽい欲望」
と
「ヘーゲルっぽい承認闘争」
が一つの作品に同居しているように見えること自体は、思想史的にも完全な珍現象ではありません。
むしろ「欲望する主体が、他者との関係で自分を発見する」というテーマは、20世紀思想において何度も再構成された巨大テーマです。
最終判定 「ブルーロック=ヘーゲル臭い」はどこまで本当か?
| 仮説 | 判定 |
|---|---|
| ブルーロックは自己更新の物語である | ◎ |
| 他者との競争によって自己を発見する構造がある | ◎ |
| 敗北が自己認識の変化を引き起こす | ◎ |
| これはヘーゲルの弁証法と比較できる | ◎ |
| 「エゴ」はフロイト的な自我概念と同一である | × |
| 絵心がフロイトを意識している | △・証拠不足 |
| 絵心がヘーゲルを意識している | △・証拠不足 |
| フロイト的「欲望」とヘーゲル的「承認」を組み合わせると作品をよく説明できる | ○〜◎ |
ドクター・チャッピー先生の最終診断
今回の「ブルーロック妙にヘーゲル臭い」という直感は、かなり侮れない。
ただし、
「作者がヘーゲルを読んでいる証拠を発見した!」
という話ではなく、
「作品構造をヘーゲルの自己意識・承認・否定・自己展開の観点から読むと、驚くほど説明力が高い」
というタイプの仮説として評価するのが妥当です。
そして一番面白いのは、絵心の「エゴ」が単純な自己中心主義ではないこと。
哲学的に再構成すると――
「自分の欲望を発見し、それを他者との衝突によって検証し、敗北によって旧い自己像を否定し、その否定を素材として新しい自己を作る」
となる。
これを一行に圧縮すると、
「エゴは一人で完成するものではなく、他者との衝突によって自己を発見する運動である。」
――はい。
めちゃくちゃヘーゲル臭い。
さらに凶悪なのは、これをフロイト的な「自分でも完全には把握できない欲望」と組み合わせると、
内なる欲望 ↓ エゴ ↓ 他者との衝突 ↓ 承認・敗北 ↓ 自己否定 ↓ 覚醒 ↓ 新しいエゴ ↓ さらに強い他者 ↓ また自己否定 ↓ ∞
という「精神分析×ヘーゲル弁証法×スポーツ漫画」の永久機関が完成する。
したがって今回の仮説は――
「ブルーロックのエゴイズムは、単なる俺TUEEE思想ではない。フロイト的な“内なる欲望”を、ヘーゲル的な“他者との承認闘争”に投入し、敗北と否定を通じて自己を更新し続ける物語として読むと、妙に綺麗に説明できる。」
徹底検証結果:作者の意図としては未確定。しかし作品の構造論としては――かなり「アリ」。
参考・思想的補助線
- ヘーゲルの自己意識・承認・主人と奴隷の弁証法については、Stanford Encyclopedia of Philosophy の解説が基本資料として有用。
- 主人と奴隷の関係では、勝者が一方的な承認しか得られず、むしろ相手への依存を抱えるという逆説が重要。
- フロイトのイド・自我・超自我という構造論は1920年代に展開された精神分析上のモデルであり、ヘーゲルの「自己意識」と同一視することはできない。
次なる検証候補:「潔世一=ヘーゲルの自己意識」「糸師凛=主人と奴隷の弁証法」「カイザー=承認欲求の失敗」「ノエル・ノア=絶対知っぽい理想像」というキャラクター別対応表まで掘ると、さらにヤバい記事になる。